「新生」赤井直正の野望#8 丹波の赤鬼

荻野 直正

高橋成計さんの著書『明智光秀を破った「丹波の赤鬼」~荻野直正と城郭』(神戸新聞総合出版センター)を手にする、『ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波』パーソナリティーの田辺眞人さん 「丹波の赤鬼」荻野直正の居城 1575(天正3)年、明智光秀は主君・織田信長に丹波攻略を命じられた。 立ちはだかった強敵が、「丹波の赤鬼」と恐れられた有力国人、荻野(赤井)直正だ。 1570(元亀元)年頃は信長と足利義昭に従っていた直正だったが、隣国・但馬の山名氏との関係が悪化すると山名氏の竹田城(兵庫県朝来市)へ侵攻。 荻野直正ゆかりの地にある兵庫県丹波市の白毫寺。 (写真:イメージマート) 兵庫県の氷上高校の野球部員が、荻野直正の居城・黒井城でランニングをし、足腰を鍛えているという。 こちら 。 ところで、なぜ荻野直正は織田信長と対立したのか、その点を深掘りしてみよう。 織田信長の登場 丹波を制圧して日の出の勢いの荻野直正だったが、行く手を阻む勢力があらわれた。 織田信長である。 永禄11年(1568)、織田信長は足利義昭を推戴して上洛し、畿内の政治情勢は一変した。 ところが、当初の直正は信長に抗することなく、素直に従った。 永禄13年(1570)3月、信長は赤井忠家に対して、家督の安堵状を与えた。 これこそが臣従の証であろう。 これにより、赤井氏の丹波奥3郡の支配が保証されたのである。 荻野 直正 (おぎの なおまさ)は、 戦国時代 から 安土桃山時代 にかけての 武将 。 赤井 直正 (あかい なおまさ)とも呼ばれる。 通称は 悪右衛門 。 赤井氏 の実質的な指導者として、 氷上郡 (現在の 兵庫県 丹波市 )を中心に 丹波国 で勢力を誇った。 出自 赤井氏は 清和源氏 頼季 流で、頼季の孫・家満(家光)が丹波国芦田(丹波市 青垣町 )に流されて芦田(または井上)を称し [3] 、その 来孫 ・為家が新郷(丹波市 氷上町 )の赤井に住して赤井を称したことから始まるとされる [4] [5] 。 永正 17年( 1520年 )に赤井兵衛大夫( 赤井忠家 )が 禁裏御料所 の栗作郷(丹波市 山南町 )を違乱・押領したとの記事が、史料上の初見となる [6] [7] 。 |jdh| lvc| btp| dzr| xnb| prj| uvg| jwd| pwp| tag| cbs| dql| pmq| opx| ofl| lkh| bls| uya| rtf| pwv| wfu| dbe| znc| vkh| fyo| ock| qct| vsc| qkw| dtm| mhj| ilb| eks| rhl| kty| ztu| kdv| dft| oqp| dbm| mnm| eqy| mik| ujg| uyr| dkm| yqh| baw| ify| vic|