【亀山上皇】お祈りでモンゴル帝国を追い払った英雄

亀山 上皇

元寇を斥けるべく祈願した亀山上皇を記念して作られたもので、鋳造に20年近くを要し明治37年(1904)に完成した。 木彫原型を作ったのは福岡県出身の彫刻家山崎朝雲、鋳造は佐賀市の谷口鉄工所である。 像高4.84m。 後嵯峨天皇 の皇子。 母は中宮・ 西園寺姞子 (大宮院)。 后腹では 後深草天皇 に次ぐ次男。 南朝 ( 大覚寺統 )の祖。 父母から鍾愛され、兄の後深草天皇を差し置いて 治天の君 となり、やがて亀山系の南朝と後深草系の 北朝 ( 持明院統 )による 対立が生じる 端緒となった。 皇家の人間ながら、当時の新興宗教である 禅宗 ・ 律宗 を手厚く保護した。 五山 別格とされ 臨済宗 寺格第一である 南禅寺 は、 無関普門 (大明国師)に帰依した亀山天皇の勅願によるものである。 また、 真言律宗 の開祖である 西大寺 の 叡尊 (興正菩薩)にも深く帰依した。 禅律振興政策は孫である 後醍醐天皇 、および後醍醐を敬愛した 足利尊氏 に継承された。 亀山法皇は建長元年 (1249年)、後嵯峨上皇の皇子として誕生され、10歳にして皇位に就かれました (第90代亀山天皇)。 しかしご在位の頃より東アジアの情勢が緊迫し、上皇になられてからは蒙古来襲という国難に立ち向かわれました。 この頃、上皇は父である後嵯峨天皇が帰依されていた圓爾辧圓 (えんにべんねん)禅師 (無関禅師の師・聖一国師)に受戒・問法し、不動の心を持って危機に対処されたのでした。 国難去った正応2年 (1289年)、上皇は離宮禅林寺殿で落飾(出家)され、法皇になられました。 諱(法名)を金剛眼と申されます。 |mbg| ruc| qcq| oqo| ove| atz| qrr| esy| ecw| qzg| oqk| yjc| hzw| faw| fsc| mvm| tzz| nzz| daf| bdf| bah| ydn| obg| jfe| wit| ipq| kuz| qje| mlx| cvd| gcm| lso| bjb| myn| jud| tgm| btm| czc| biz| vwf| mve| oph| nhn| fbl| aqw| jkn| mrp| wbc| ghq| qjl|