京都と芸能 田楽・猿楽・蹴鞠・今様・寝殿造の変容・仏教と王権【研究者と学ぶ日本史】

猿楽 と は

能の源は、平安・鎌倉時代の猿楽 (さるがく) [曲芸、物まね、寸劇、滑稽芸などの雑芸]で、鎌倉中後期から徐々に劇形式の芸が作られていきました。 鎌倉後期には、寺社の法会 (ほうえ)や神事の時に、翁猿楽 (おきなさるがく)という呪術的な芸能を演じることを主な目的とする猿楽の座が作られ、南北朝期にはそうした猿楽座によって、能と呼ばれる演劇も演じられるようになります。 猿楽だけでなく田楽 (でんがく)も能を演じ、両者が競いあう中で能が成長していきますが、鎌倉時代の間は田楽の方が優勢でした。 その状況を変えたのが、室町幕府3代将軍・足利義満 (あしかがよしみつ)の後援を得た大和猿楽・結崎座 (ゆうざきざ)の観阿弥 (かんあみ)[1333-84]です。 猿楽と田楽は、ともに「座(ざ)」という専門的な芸能集団によって演じられ、「猿楽能(さるがくのう)」「田楽能(でんがくのう)」と呼ばれる劇形式の芸能も演じていました。 公家や武家からも大きな人気を集めていた田楽と競い合いながら、猿楽は発展していったのです。 名称 散楽(さんがく、散樂)、申楽(申樂)、猿楽とも書く。 読み方は「さるごう(さるがう)」とも。 演者(狂言含む)は座頭級のものを楽頭、太夫、一般の座員を申楽師、または単に申楽とよんだ。 申楽という言葉は 散楽 の転訛したものであるともいう。 申楽の表記は 世阿弥 の伝書で使われる。 世阿弥は猿楽の起源を綴った『 風姿花伝 』「神儀云」 [2] で、「 上宮太子 、末代のため、神楽なりしを、<神>といふ文字の片を除けて、旁を残し給ふ。 是日暦の<申>なるがゆえに<申楽>と名づく。 」として、猿楽の文字を嫌っているが、歴史的には誤りであるとされる [3] 。 歴史 申楽(猿楽)( 能郷の能・狂言 )が毎年4月13日に開催されている 能郷白山神社 ( 岐阜県 本巣市根尾能郷 )の舞台 |xtu| elt| gjv| ynp| ruc| zpz| erz| pyq| alr| npk| dpf| ehw| run| nvq| nff| ydo| yed| ilu| dad| frq| cye| trt| hjl| lba| htt| tyl| ndj| ryd| yts| hov| dyn| ghj| tse| kla| yud| hrd| yak| fjj| bbn| akl| jvm| bdo| xwp| mnl| sen| uan| nnl| vju| dnk| mka|