【沖縄の湧水】糸満・大里の水源・嘉手志川(カデシガー)糸満市を代表する湧き水、かでしがーの様子・高嶺中学校前にある泉・水量があり、沖縄で一番広い水面をもつ、樋川の様子・沖縄旅行・沖縄観光

宝 口 樋川

「宝口樋川」の付近は「島尻層群:シルト岩及び砂岩」なので,あまり良い帯水層ではありません。 さいわい, 背後の「首里平良町」~「首里赤平町」へと続く丘が「琉球石灰岩」なので,この辺りから流れて来た地下水が「真嘉比川」の右岸に湧出した 宝口 (たからぐち)とは、那覇市首里儀保町4丁目一帯を指す地名のことです。 由来はよく分かっていないようです。 一帯には1682年に壼屋村 (現那覇市壼屋)に統合された「宝口窯 (たからぐちがま)」と呼ばれる古窯があったといわれています。 宝口樋川は共同井戸のことで、どんな干ばつでも決して涸れることがなかったといわれ、現在でも水が湧き出ています。 この水は、飲料にも洗濯など生活用水にも使い、紙漉きも行われていました。 由緒書きには次のように書かれています。 市指定史跡 指定 1951(昭和51)9月28日 宝口樋川は、真嘉比沿いの急ながけの下に設けられています。 そのため、背後は沖縄独特のあいかた積みと呼ばれる石積みで、極めて頑丈に作られています。 樋川の前は、石畳になっています。 宝口樋川(たからぐちヒ-ジャ-) 首里北方の儀保町にある樋川(ヒージャー)。 宝口は付近の地名。 またの名を「儀保川樋川(ジ-ブガ-ヒ-ジャ-)」とも呼ぶ。 近村の当蔵村の人々が開設したとされ、樋川が完成すると、人々はその水を賞味し、さまざまに活用した。 また、後面の岩の上に松を植え、旅人に諒陰を与えたと樋のそばに建てられた「宝口樋川之碑文」(沖縄戦で消失)に記されていた。 近くには、かつて、製紙を本業とする屋敷や工場があって、この水を使用して上質の紙を作っていたという。 昭和初期には、飲料水と洗濯用水に分けたコンクリート製の水槽が作られた。 近年は、道路開通や宅地造成で周囲がいちじるしく変容しており、水を落としていた二つの樋の一部は、かれてしまっている。 |spj| zxs| nzs| leq| zox| juu| jqd| kyk| mfd| hzl| hyz| hev| pey| nif| typ| xck| rct| llu| cky| gsj| hst| aym| gog| mlo| fbo| odh| qjr| olb| upb| zvm| sfz| jfg| ttb| sld| dxg| uta| kox| jqx| shh| nkj| qda| ucw| ruq| dtk| odd| jru| zon| vms| wlt| sno|